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(11JUL2007 revised)
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第弐拾壱回 前世物語の時代 その壱 05JUL2007
前世物語の時代を振り返ってみましょうかね
今回はその第壱回です
| 永正八年 | 1511 | 船岡山の戦い | 足利義材を擁立する細川高国・大内義興と足利義澄を擁立する細川澄元との間で丹波国船岡山でおきた、室町幕府の政権をめぐる戦い |
| 永正十四年 | 1517 | 有田中井手の戦い | 足利義材を奉じて京に出陣した大内義興の留守中に尼子氏と組んで安芸国を大内氏から独立させようとした武田元繁を毛利元就率いる毛利・吉川連合軍が有田城南の又打川で討ち取った戦い |
| 大永三年 | 1523 | 寧波の乱 | 明の寧波において対明貿易の権利を巡って大伴氏が細川氏の遣明船を襲撃した事件 |
| 享禄三年 | 1530 | 田手畷の戦い | 少弐氏を再興させた少弐資元を滅ぼすべく大内義興の子の大内義隆が筑前守護代杉興連に命じて肥前勢福寺城を攻めたが、返り討ちにあった戦い |
| 天文元年 | 1532 | 山科本願寺焼き討ち | 日蓮宗徒が細川晴元と組んで起こした法華一揆で、一向宗の本拠の山科本願寺を焼き討ちにした事件 |
| 天文五年 | 1536 | 花倉の乱 | 駿河国今川氏のお家騒動で、今川氏親の正室の子の子の梅岳承芳(後の今川義元)と、側室の子の玄広恵探の家督争いで、承芳の勝ち |
| 天文五年 | 1536 | 天文法華の乱 | 天台宗比叡山の僧兵が天文元年に発生した法華一揆を撃滅し洛中洛外の日蓮宗寺院二十一本山をことごとく焼き払った事件、比叡山の僧が日蓮宗徒の松本久吉に言い負かされたのが発端とか |
| 天文七年 | 1538 | 第一次 国府台の戦い | 自称下総国の統治者こと古河公方の足利政氏と足利高基の親子喧嘩の最中に突然飛び出し小弓公方と称して古河公方と対立した足利義明が国府台城に入ったところを、古河公方と同盟を結んだ北条氏綱が攻め入り、義明を討ち取った戦い |
| 天文八年 | 1539 | 自夜誕生 | |
| 天文九年 −同十年 | 1540 -1541 | 吉田郡山城の戦い | 出雲尼子氏から周防大内氏に鞍替えした安芸の毛利元就を尼子氏が討とうとして毛利・大内軍に返り討ちにあった戦い |
| 天文十一年 −同十二年 | 1542 -1543 | 第一次 月山富田城の戦い | 吉田郡山城の戦いで尼子氏の追撃に失敗した毛利・大内軍が尼子氏の本拠の出雲に攻め込んで、今度は返り討ちにあった戦い |
| 天文十一年 −同十七年 | 1542 -1548 | 天文の乱 | 陸奥国伊達家十四代当主伊達稙宗とその長男の伊達晴宗の親子喧嘩で、第十三代将軍足利義輝の停戦命令により晴宗が第十五代当主になり、稙宗は隠居 |
| 天文十一年 | 1542 | 第一次 小豆坂の戦い | 松平清康の死で弱体化した三河松平氏を後押しする今川義元と、三河を狙う織田信秀が岡崎城東南の小豆坂でぶつかった戦いで、信秀が勝ち西三河に進出した(こんな戦い無かったと主張する人もいる) |
| 天文十五年 | 1546 | 河越城の戦い | 日本三大夜戦の一つで、河越城の北条綱成を関東管領・古河公方を中心とした関東大名の連合軍が攻めた戦いで、北条氏康が綱成の救援に駆け付け、北条方が十倍の勢力の連合軍に勝利するという名高い戦い(ながら、合戦の年に諸説あったりする) |
| 天文十七年 | 1548 | 第二次 小豆坂の戦い | 岡崎城攻略を目指す織田信秀と、松平氏救援に出陣した今川勢が小豆坂でぶつかった戦いで、今回は今川勢が勝ち、織田勢は三河から引き上げた |
| 天文十七年 | 1548 | 上田原の戦い | 父武田信虎を追放して以降、破竹の連勝を続ける甲斐国の武田晴信(信玄)と、清和源氏の流れをくむ名族の北信濃の村上義清が信濃国上田原でぶつかった戦いで、晴信初めての大敗 |
| 天文十九年 | 1550 | 砥石城の戦い | 上田原の戦いで負けた武田晴信が再度村上義清に仕掛けて砥石城に攻め入ったが、完敗した戦い |
| 天文二十二年 −永禄七年 | 1553 -1564 | 川中島の戦い | 北信濃の支配をかけて、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が五回戦った戦いの総称で、一回目は引き分けだが、上杉方になった村上義清が越後に敗走、二回目は今川義元の仲介で和睦、三回目は引き分け、四回目は初の大合戦となるが有名な合戦の割に確実な史料がなく詳細不明なるも、双方勝ちを主張、第五回目は睨み合いだけで収束 |
| 天文二十四年 | 1555 | 厳島の戦い | 大内義隆を討って大内氏の実権を握った陶晴賢が毛利元就の厳島宮尾城を攻めた戦いだが、伊予水軍の援助を得た毛利軍の逆襲を受け、晴賢は自刃、後日晴賢に擁立されていた大内義長も自害して、大内氏は滅亡する |
| 弘治二年 | 1556 | 長良川の戦い | 美濃の蝮こと斎藤道三とその子の斎藤義龍の親子喧嘩で、道三の娘婿の織田信長の援軍が間に合わず、道三とうさんは戦死 |
| 弘治二年 | 1556 | 稲生の戦い | 織田信長と弟織田信勝の兄弟喧嘩、弟が謀反を企て、兄が撃ち返した形だが、信勝はこの時は助命されている(翌年再度謀反を企むが、バレて自刃) |
| 永禄三年 | 1560 | 長浜の戦い | 土佐の豪族の長宗我部氏と本山氏の戦いで、長宗我部氏の勝ちだが、本山氏打倒までには至らなかった |
| 永禄三年 | 1560 | 桶狭間の戦い | 尾張に侵攻した今川義元の本隊を織田信長が強襲し討ち取った戦い、有名な戦いの割に、実は場所が特定されていなかったりする、信長が迂回して奇襲したという説も定説ではない |
| 永禄三年 | 1560 | 野良田の戦い | 南近江の六角義賢の臣下となっていた北近江の浅井長政が、義賢から離反するために義賢と戦ったもので、劣勢の浅井軍が六角軍を破り、独立を果たした |
| 永禄四年 | 1561 | 加由誕生 | |
| 永禄五年 | 1562 | 教興寺の戦い | 細川管領体制を潰した三好長慶と、三管領の一つの畠山高政が戦ったもので、新旧勢力の戦いと言え、新勢力である三好勢が勝ち、畿内から旧勢力が一掃された |
| 永禄五年 −同八年 | 1562 -1565 | 第二次 月山富田城の戦い | 中国地方の一大勢力となった毛利元就が出雲に攻め入り尼子氏を滅亡させた戦い |
| 永禄七年 | 1564 | 第二次 国府台の戦い | 主君である北条氏康から上杉謙信への寝返りを企てた太田康資を救出するために下総国国府台城に入った里見義弘が正月の酒宴でいい気分になっているところを北条軍が襲って潰走させた戦い |
| 永禄七年 | 1564 | 自夜死亡 | |
| 永禄十二年 | 1569 | 三増峠の戦い | 武田信玄が北条氏康の小田原城を攻めたが及ばず撤退、追っ手の後北条軍を三増峠で武田軍が返り討ちにした戦い(痛み分けだったとの説もある) |
| 永禄十二年 | 1569 | 第二次 多々良浜の戦い | 大伴氏と毛利氏が豊前・筑前の支配権を巡って戦ったもので、尼子氏の残党が出雲に攻め込んできたため毛利氏が撤退して終了 |
| 元亀元年 | 1570 | 今山の戦い | 大友宗麟軍が佐嘉城に立て籠もる龍造寺隆信軍に攻め込んだが、総攻撃の前日の前祝いで酔ったところを龍造寺側の鍋島直茂が夜襲をかけて、大友軍を蹴散らした戦い |
| 元亀元年 | 1570 | 布部山の戦い | 尼子家家臣山中鹿介率いる尼子再興軍とそれを阻止せんとする毛利軍の戦いで、住民に教えられた間道を通って毛利別働隊が尼子軍本陣を強襲し、尼子勢の負けとなった戦い |
| 元亀元年 −天正二年 | 1570 -1574 | 長島一向一揆 | 本願寺の反信長蜂起に伴って、願証寺住職証恵を主将として非門徒の武士団も加えた一向衆の一揆で、最終的に信長軍が鎮圧した |
| 元亀元年 −天正八年 | 1570 -1580 | 石山合戦 | 浄土真宗本願寺と織田信長の戦いで勅命により講和となる |
| 元亀元年 | 1570 | 金ヶ崎の戦い | 越前国朝倉義景領に織田信長・徳川家康連合軍が攻め入った戦いで、浅井長政が織田・徳川軍を裏切って、織田・徳川軍が窮地に陥ったり、木下秀吉が殿に名乗り出て信長が命からがら京に逃げ帰ったり、戦国好きの人にはなにかと興味のある戦い |
| 元亀元年 | 1570 | 姉川の戦い | 金ヶ崎の戦いのリターンマッチで、織田・徳川軍が近江国に攻め入り浅井・朝倉連合軍を打ち破った戦い |
| 元亀三年 | 1572 | 三方ヶ原の戦い | 織田信長の傀儡となっていた将軍足利義昭からの上洛および信長征討の要請を受けた武田信玄が、上洛の一環として遠江国の徳川家康を攻めた戦いで、家康は九死に一生を得て単騎浜松城に逃げ帰った |
| 元亀三年 | 1572 | 木崎原の戦い | 勝ちに奢った日向国の伊東義祐が島津氏の飯野城を攻め、僅か十分の一の島津義弘の軍勢に敗れた戦い |
| 元亀三年 | 1573 | 野田城の戦い | 武田信玄が徳川方の野田城を攻めた戦いで、城は一月かけて落城したが、信玄はこの戦いで狙撃されたという説もある |
| 天正元年 | 1573 | 一乗谷城の戦い | 武田信玄が死んで怖い者がいなくなった織田信長が越前に攻め入り、朝倉義景が自刃するはめになった戦いで、越前朝倉氏滅亡となった |
| 天正二年 −同三年 | 1574 -1575 | 越前一向一揆 | 朝倉氏滅亡後に起こった一向一揆で、織田信長に臣従し、守護代に任命された桂田長俊に不満を抱いていた旧朝倉家臣も同調し、長俊をぶち殺したのを始め、主立った朝倉旧臣団を滅亡させ、越前は百姓の国となったが、翌年には一揆衆の内部分裂が始まり、最終的には織田信長命じる柴田勝家軍に一向衆一万数千人が虐殺され、越前は平定された |
| 天正二年 | 1574 | 第一次 高天神城の戦い | 武田勝頼が徳川方の遠州高天神城を攻めて落とした戦い |
| 天正三年 | 1575 | 長篠の戦い | 徳川氏に属する奥三河の長篠城を武田勝頼が攻め、徳川家康の援軍要請により織田信長軍が参戦、鉄砲隊の活躍により武田軍を撃退した戦い |
| 天正三年 | 1575 | 渡川の戦い | 家臣団の謀反により一旦は豊後国に逃げた幡多の一条兼定が土佐中村に戻り挙兵したところを長宗我部元親が攻め、一条軍が負けた戦いで、元親により土佐統一がなる |
| 天正四年 −同五年 | 1576 -1577 | 七尾城の戦い | 織田信長との同盟を破棄した上杉謙信が内紛でごたごたしている畠山氏が支配する能登に侵攻した戦いで、北条氏政が上野国に侵攻したため、一時は危うかったものの最終的に謙信が七尾城を落とし、能登を支配下に入れた |
| 天正四年 | 1576 | 第一次 木津川口の戦い | 石山本願寺へ兵糧を移送する毛利水軍・村上水軍と、それを阻止せんとする織田水軍との戦いで、焙烙火矢の前に織田水軍は壊滅的な打撃を受けた |
| 天正五年 | 1577 | 手取川の戦い | 七尾城の救援に駆け付ける織田信長軍を上杉謙信軍が返り討ちにした戦いだが、その実態は諸説あり、その規模など判ってないことが多い |
| 天正六年 | 1578 | 第二次 木津川口の戦い | 第一次のリターンマッチで、鉄甲船六隻を擁する織田方九鬼水軍が毛利水軍・村上水軍を蹴散らして、石山本願寺への補給路を断った |
| 天正六年 | 1578 | 耳川の戦い | 木崎原の戦いで日向に侵攻した島津義久に九州最強と謳われた大友宗麟が攻め込んで、返り討ちにあった戦い |
| 天正六年 | 1578 | 上月城の戦い | 羽柴秀吉に奪われていた播磨・美作・備前三国の国境の地にある上月城を、毛利輝元が攻め取った戦いで、城防衛を任されていた尼子氏残党の尼子勝久・尼子氏久・尼子通久らは自刃し、尼子氏再興の夢は消えた |
| 天正六年 −同七年 | 1578 -1579 | 御館の乱 | 上杉謙信が厠で脳卒中で倒れて死んだ後の上杉景勝(謙信の養子)と上杉景虎(謙信の養子)の跡目争いで、景勝が勝ち、景虎は自害した |
| 天正六年 | 1578 | 月岡野の戦い | 御館の乱で上杉氏がごたごたしているのをいいことに、織田信長が越中に攻め込んだ戦いで、越中平定がなるかと思われたが、荒木村重の謀反などで織田軍は撤退した |
| 天正六年 | 1578 | 須磨誕生 (但し推定) | |
| 天正七年 | 1579 | 第一次 天正伊賀の乱 | 伊賀忍者下山甲斐にそそのかされた織田信雄が伊賀を攻めようとして逆に奇襲にあい大負けした戦い |
| 天正九年 | 1581 | 第二次 高天神城の戦い | 武田氏が長篠の戦い以降衰退した好機を捉え、徳川家康が遠州高天神城を兵糧攻めで取り返した戦い |
| 天正九年 | 1581 | 第二次 天正伊賀の乱 | 第一次天正伊賀の乱で勝手に軍を動かした次男信雄に激怒した織田信長であるが、今度は自ら伊賀に攻め込み、伊賀忍者の多くが虐殺され、生き残った忍者達も全国に散った |
| 天正十年 | 1582 | 本能寺の変 | 明智光秀の謀反により、織田信長が自刃に追い込まれた事件 |
| 天正十年 | 1582 | 山崎の戦い | 本能寺の変で織田信長を討った明智光秀と備中高松城攻城戦から急ぎ引き返した羽柴秀吉との戦いで、明智軍は総崩れとなり、光秀は自刃した(俗に光秀の三日天下と言われるが、実際には十一日天下) |
| 天正十年 | 1582 | 神流川の戦い | 親織田路線の北条氏直と、織田氏から上野国に封じられ、関東管領を自称した滝川一益は表面上友好関係であったが、本能寺の変により織田信長の死を知った氏直が上野国に侵攻した戦いで、滝川軍は大敗し、一益は伊勢まで逃げ帰った |
| 天正十年 | 1582 | 中富川の戦い | 織田信長の四国征伐で動きが取れなかった土佐の長宗我部元親が、本能寺の変で征伐軍が帰ったのをいいことに、四国統一のために阿波の十河存保を攻めた戦いで、十河軍は大負けし、阿波勝瑞城に退却した |
| 天正十年 | 1582 | 天正壬午の乱 | 織田信長の死によって、事実上空白となった旧武田領を巡って、徳川軍と北条軍が甲斐・信濃・上野で激突した戦いで、講和により北条は甲斐・信濃に手を出さない、徳川は上野に手を出さないこととなった |
| 天正十一年 | 1583 | 賤ヶ岳の戦い | 織田家の内紛と言えないこともないが、羽柴秀吉と柴田勝家の近江国での戦いで、秀吉が勝利し、信長の後継者となり、勝家は自害した |
| 天正十二年 | 1584 | 小牧・長久手の戦い | 羽柴秀吉の謀略にあっさり騙された織田信雄が徳川家康に援軍を求め、羽柴軍と戦ったもので、信雄・家康側が有利に進めたが、信雄が勝手に秀吉と講和し、大義名分を失った家康は兵を引いた |
| 天正十二年 | 1584 | 沖田畷の戦い | 北部九州の龍造寺隆信と、薩摩の島津義久は肥後を巡って対立していたが、島原の有馬晴信が島津に内通し、島原半島で両軍が激突した戦いで、有馬・島津連合軍が勝利し、龍造寺隆信は戦死した |
| 天正十三年 | 1585 | 紀州征伐 | 反抗した雑賀衆を豊臣秀吉が討って滅ぼした戦い |
| 天正十三年 | 1585 | 四国征伐 | 四国統一を果たした長宗我部元親に豊臣秀吉が阿波、讃岐、伊予の三国返上を要求、元親がこれを拒否したため、秀吉は秀長、秀次に加え宇喜多、毛利軍計十万を四国に送り、元親はたまらず降伏、長宗我部氏は土佐一国に封じられる |
| 天正十三年 | 1585 | 越中征伐 | 佐々成政が立て籠もる越中国富山城を豊臣秀吉率いる大群で包囲し、成政があっさり降伏した戦いで、秀吉は成政から越中を取り上げ、前田利長に与えると共に、成政を一時御伽衆に取り入れた |
| 天正十三年 | 1585 | 第一次 上田合戦 | 武田氏の滅亡で主君を失った信州上田城の城主真田昌幸が、徳川家康の上野沼田領を北条氏へ引き渡せとの要求に拒否したことから、家康が上田に攻め込んだ戦いで、昌幸の戦上手に徳川軍は大打撃を受け撤退した |
| 天正十三年 | 1585 | 人取橋の戦い | 父輝宗の仇と畠山氏の二本松城を包囲した伊達政宗に、畠山氏救援に駆け付けた佐竹義重はじめ、諸氏連合軍が攻めかけた戦いで、伊達軍は壊滅寸前となったが、佐竹・諸氏連合軍の謎の撤退により、政宗は窮地を脱し、岩角城へ引き上げた |
| 天正十四年 | 1587 | 戸次川の戦い | 九州制覇を目指す島津勢が大友氏の豊後に攻め入り、大友氏が豊臣秀吉に求めた長宗我部・仙石・十河連合軍ともども蹴散らして、豊後を勝ち取った戦い |
| 天正十五年 | 1587 | 九州征伐 | 九州制覇を目前にした島津勢に、豊臣秀吉自ら二十万を超える軍勢で進軍した戦いで、島津義久はたまらず降伏し、大部分は秀吉に召し上げられ、島津は薩摩・大隅のみ封じられた |
| 天正十五年 | 1587 | 肥後国人一揆 | 九州征伐により肥後国は佐々成政に統治されることになったが、これに対し国人衆が反乱を起こした事件で、九州・四国の諸大名が動員され、一揆は鎮圧されたが、成政も一揆勃発の責任を問われて切腹した |
| 天正十六年 | 1588 | 大崎合戦 | 陸奥大崎氏の内紛鎮圧要請を大崎家家臣氏家吉継から受けた伊達政宗が大崎氏中新田城に攻め入った戦いで、伊達軍は反撃に合い撤退したが、大崎家救援に駆け付けた最上義光の参戦や、大内・蘆名氏等の伊達領への侵攻で、伊達軍は窮地となり、なんとか大崎氏と和議を結び、双方各陣営は撤退帰国した |
| 天正十七年 | 1589 | 摺上原の戦い | 伊達政宗が豊臣秀吉の惣無事令を無視して蘆名氏の会津に攻め入った戦いで、政宗が勝ち、蘆名義広は佐竹氏の常陸国に敗走し、蘆名氏は滅亡した |
| 天正十八年 | 1590 | 小田原征伐 | 豊臣秀吉が小田原城をはじめとした後北条氏領土に攻め入り、後北条氏を滅亡させた戦いだが、「小田原評定」という言葉の由来としての方が有名 |
| 天正十八年 | 1590 | 奥州仕置 | 豊臣秀吉が主に小田原征伐の陣触れへの対応具合に応じて奥州諸氏の処遇を決め、奥州仕置軍を会津黒川まで進軍させたもので、これにより秀吉の天下平定が完了した |
| 天正十八年 | 1590 | 葛西大崎一揆 | 豊臣秀吉の奥州仕置で領地を没収された陸奥中部の葛西氏・大崎氏らの旧臣が起こした反乱で、蒲生氏郷と伊達政宗がそれぞれ新領主の木村氏救出の命を受けて、軍を派遣したが、反乱そのものは政宗が煽動したと言う説がある(秀吉は政宗の弁明を認めた) |
| 天正十九年 | 1591 | −九戸政実の乱 | 陸奥国南部氏は奥州仕置で領地は安堵されたが、前代南部晴継の暗殺の容疑がある南部信直が当主であることに不満を抱いていた九戸政実が起こした反乱で、信直は秀吉に九戸討伐を要請、六万を上回る討伐軍が編成され、九戸氏所領への攻撃、九戸政実は降伏し、後に九戸一族もろとも斬首・惨殺され、九戸氏は滅亡した |
| 天正二十年 | 1592 | 梅北一揆 | 島津家家臣・梅北国兼が起こした反乱で、動機は、朝鮮出兵への反発とも、秀吉の支配に対する反発ともいわれ、佐敷城を占拠したが、佐敷城留守役の安田弥右衛門に騙されあっさり斬首、一揆軍も加藤氏や相良氏の軍勢によって鎮圧された |
| 天正二十年 −慶長三年 | 1592 -1598 | 文禄・慶長の役 | 明の征服を目指して豊臣秀吉が起こした対外戦争 |
| 慶長五年 | 1600 | 関ヶ原の役 | 豊臣秀吉死後の政権を巡って争われた徳川家康を中心とする派と石田三成を中心とする派の間の決戦で、徳川方が勝ち、後に江戸幕府となるが、所詮豊臣家の家臣同士の争いであり(事実豊臣家自体は参戦していない)、豊臣家の内紛と捉えることも不可能ではない |
| 第百三代後土御門天皇 | 寛正五年 七月十九日 | 1464.8.21 | − | 明応九年 九月二十八日 | 1500.10.21 |
| 第百四代後柏原天皇 | 明応九年 十月二十五日 | 1500.11.16 | − | 大永六年 四月七日 | 1526.5.19 |
| 第百五代後奈良天皇 | 大永六年 四月二十九日 | 1526.6.9 | − | 弘治三年 九月五日 | 1557.9.27 |
| 第百六代正親町天皇 | 弘治三年 十月二十七日 | 1557.. | − | 天正十四年 十一月七日 | 1586.12.17 |
| 第百七代後陽成天皇 | 天正十四年 十一月七日 | 1586.12.17 | − | 慶長十六年 三月二十七日 | 1611.5.9 |
てなところで、次回につづく