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第弐拾壱回 前世物語の時代 その壱 05JUL2007


前世物語の時代を振り返ってみましょうかね
今回はその第壱回です

学校で習う歴史は嫌いだったんですがね

私が学生の頃は戦国時代の始まりを応仁の乱と習ったものですが、最近では明応の政変が発生した明応二年をその始期とする説が有力であるようです
また、その終焉も、天正元年に織田信長が足利義昭を追放することで幕府が事実上消滅するまでとすることが多いようです
西暦で言うと、1493年〜1573年のことで、約80年が戦国時代だったことになります
ちなみに、応仁の乱は、応仁元年(1467)から文明九年(1477)の約十年間続いた内乱で、簡単に言えば東軍(細川方)と西軍(山名方)の戦いですが、この乱により、幕府の権威や荘園制度などの旧制度の崩壊が始まったことが、歴史的には重要でしょうかね
応仁の乱以降、明応の政変までの重要な事件としては、山城国一揆が挙げられるでしょうか
この一揆は文明十七年(1485)に南山城で起こったもので、国人(土着の武士層)が起こした一揆なので国一揆なんですが、惣村の農民も参加して、守護大名の影響を排除し、国人衆による自治政治が行われる惣国、つまり共和国になったというのがその特徴でしょうか
この共和国も明応二年(1493)に自ら解体し、新しい守護の支配下となったわけですが、約八年間とはいえ、この時代に土着の武士や農民が自治政治を行っていたことは、遠く私の生まれる土地にも話として伝わってきたものでした
といっても、私が生まれる随分と前のことですし、山城の国が何処にあるかなど、さっぱり判りませんでしたけどね
一方、長享二年(1488)には有名な加賀一向一揆が始まります
加賀一向一揆は「百姓ノ持チタル国」として、天正十年(1582)に織田軍が鳥越城を再び落とすまでの約百年間、武士層の支配下から脱していたことで有名ですが、当時伝え聞いた話では一向宗、即ち本願寺衆の一揆であり、百姓の一揆とか百姓の国という感触はなかったように記憶しています
さて、明応の政変発生以降の時代ですが、兎にも角にも混乱期でもあり、文献資料に乏しい時代でもあります
また、後世創作物として世に流布し、さも史実のように思いこまれていることも多く、正確に理解することが難しい時代でもありますが、ぐだぐだとそういうことを言っていても前に進みませんので、一応確認はとったつもりですが、私の理解で話を進めさせていただきましょう
そういうわけですので、明らかに間違いであると言うところがあれば、指摘して頂けると嬉しいです
では、まず、明応の政変発生以降の合戦史を関ヶ原までの年表形式でざっと見ていってみましょうか
一応、私や加由の生年なども加えておきます

永正八年1511船岡山の戦い足利義材を擁立する細川高国・大内義興と足利義澄を擁立する細川澄元との間で丹波国船岡山でおきた、室町幕府の政権をめぐる戦い
永正十四年1517有田中井手の戦い足利義材を奉じて京に出陣した大内義興の留守中に尼子氏と組んで安芸国を大内氏から独立させようとした武田元繁を毛利元就率いる毛利・吉川連合軍が有田城南の又打川で討ち取った戦い
大永三年1523寧波の乱明の寧波において対明貿易の権利を巡って大伴氏が細川氏の遣明船を襲撃した事件
享禄三年1530田手畷の戦い少弐氏を再興させた少弐資元を滅ぼすべく大内義興の子の大内義隆が筑前守護代杉興連に命じて肥前勢福寺城を攻めたが、返り討ちにあった戦い
天文元年1532山科本願寺焼き討ち日蓮宗徒が細川晴元と組んで起こした法華一揆で、一向宗の本拠の山科本願寺を焼き討ちにした事件
天文五年1536花倉の乱駿河国今川氏のお家騒動で、今川氏親の正室の子の子の梅岳承芳(後の今川義元)と、側室の子の玄広恵探の家督争いで、承芳の勝ち
天文五年1536天文法華の乱天台宗比叡山の僧兵が天文元年に発生した法華一揆を撃滅し洛中洛外の日蓮宗寺院二十一本山をことごとく焼き払った事件、比叡山の僧が日蓮宗徒の松本久吉に言い負かされたのが発端とか
天文七年1538第一次
国府台の戦い
自称下総国の統治者こと古河公方の足利政氏と足利高基の親子喧嘩の最中に突然飛び出し小弓公方と称して古河公方と対立した足利義明が国府台城に入ったところを、古河公方と同盟を結んだ北条氏綱が攻め入り、義明を討ち取った戦い
天文八年1539自夜誕生
天文九年
−同十年
1540
-1541
吉田郡山城の戦い出雲尼子氏から周防大内氏に鞍替えした安芸の毛利元就を尼子氏が討とうとして毛利・大内軍に返り討ちにあった戦い
天文十一年
−同十二年
1542
-1543
第一次
月山富田城の戦い
吉田郡山城の戦いで尼子氏の追撃に失敗した毛利・大内軍が尼子氏の本拠の出雲に攻め込んで、今度は返り討ちにあった戦い
天文十一年
−同十七年
1542
-1548
天文の乱陸奥国伊達家十四代当主伊達稙宗とその長男の伊達晴宗の親子喧嘩で、第十三代将軍足利義輝の停戦命令により晴宗が第十五代当主になり、稙宗は隠居
天文十一年1542第一次
小豆坂の戦い
松平清康の死で弱体化した三河松平氏を後押しする今川義元と、三河を狙う織田信秀が岡崎城東南の小豆坂でぶつかった戦いで、信秀が勝ち西三河に進出した(こんな戦い無かったと主張する人もいる)
天文十五年1546河越城の戦い日本三大夜戦の一つで、河越城の北条綱成を関東管領・古河公方を中心とした関東大名の連合軍が攻めた戦いで、北条氏康が綱成の救援に駆け付け、北条方が十倍の勢力の連合軍に勝利するという名高い戦い(ながら、合戦の年に諸説あったりする)
天文十七年1548第二次
小豆坂の戦い
岡崎城攻略を目指す織田信秀と、松平氏救援に出陣した今川勢が小豆坂でぶつかった戦いで、今回は今川勢が勝ち、織田勢は三河から引き上げた
天文十七年1548上田原の戦い父武田信虎を追放して以降、破竹の連勝を続ける甲斐国の武田晴信(信玄)と、清和源氏の流れをくむ名族の北信濃の村上義清が信濃国上田原でぶつかった戦いで、晴信初めての大敗
天文十九年1550砥石城の戦い上田原の戦いで負けた武田晴信が再度村上義清に仕掛けて砥石城に攻め入ったが、完敗した戦い
天文二十二年
−永禄七年
1553
-1564
川中島の戦い北信濃の支配をかけて、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が五回戦った戦いの総称で、一回目は引き分けだが、上杉方になった村上義清が越後に敗走、二回目は今川義元の仲介で和睦、三回目は引き分け、四回目は初の大合戦となるが有名な合戦の割に確実な史料がなく詳細不明なるも、双方勝ちを主張、第五回目は睨み合いだけで収束
天文二十四年1555厳島の戦い大内義隆を討って大内氏の実権を握った陶晴賢が毛利元就の厳島宮尾城を攻めた戦いだが、伊予水軍の援助を得た毛利軍の逆襲を受け、晴賢は自刃、後日晴賢に擁立されていた大内義長も自害して、大内氏は滅亡する
弘治二年1556長良川の戦い美濃の蝮こと斎藤道三とその子の斎藤義龍の親子喧嘩で、道三の娘婿の織田信長の援軍が間に合わず、道三とうさんは戦死
弘治二年1556稲生の戦い織田信長と弟織田信勝の兄弟喧嘩、弟が謀反を企て、兄が撃ち返した形だが、信勝はこの時は助命されている(翌年再度謀反を企むが、バレて自刃)
永禄三年1560長浜の戦い土佐の豪族の長宗我部氏と本山氏の戦いで、長宗我部氏の勝ちだが、本山氏打倒までには至らなかった
永禄三年1560桶狭間の戦い尾張に侵攻した今川義元の本隊を織田信長が強襲し討ち取った戦い、有名な戦いの割に、実は場所が特定されていなかったりする、信長が迂回して奇襲したという説も定説ではない
永禄三年1560野良田の戦い南近江の六角義賢の臣下となっていた北近江の浅井長政が、義賢から離反するために義賢と戦ったもので、劣勢の浅井軍が六角軍を破り、独立を果たした
永禄四年1561加由誕生
永禄五年1562教興寺の戦い細川管領体制を潰した三好長慶と、三管領の一つの畠山高政が戦ったもので、新旧勢力の戦いと言え、新勢力である三好勢が勝ち、畿内から旧勢力が一掃された
永禄五年
−同八年
1562
-1565
第二次
月山富田城の戦い
中国地方の一大勢力となった毛利元就が出雲に攻め入り尼子氏を滅亡させた戦い
永禄七年1564第二次
国府台の戦い
主君である北条氏康から上杉謙信への寝返りを企てた太田康資を救出するために下総国国府台城に入った里見義弘が正月の酒宴でいい気分になっているところを北条軍が襲って潰走させた戦い
永禄七年1564自夜死亡
永禄十二年1569三増峠の戦い武田信玄が北条氏康の小田原城を攻めたが及ばず撤退、追っ手の後北条軍を三増峠で武田軍が返り討ちにした戦い(痛み分けだったとの説もある)
永禄十二年1569第二次
多々良浜の戦い
大伴氏と毛利氏が豊前・筑前の支配権を巡って戦ったもので、尼子氏の残党が出雲に攻め込んできたため毛利氏が撤退して終了
元亀元年1570今山の戦い大友宗麟軍が佐嘉城に立て籠もる龍造寺隆信軍に攻め込んだが、総攻撃の前日の前祝いで酔ったところを龍造寺側の鍋島直茂が夜襲をかけて、大友軍を蹴散らした戦い
元亀元年1570布部山の戦い尼子家家臣山中鹿介率いる尼子再興軍とそれを阻止せんとする毛利軍の戦いで、住民に教えられた間道を通って毛利別働隊が尼子軍本陣を強襲し、尼子勢の負けとなった戦い
元亀元年
−天正二年
1570
-1574
長島一向一揆本願寺の反信長蜂起に伴って、願証寺住職証恵を主将として非門徒の武士団も加えた一向衆の一揆で、最終的に信長軍が鎮圧した
元亀元年
−天正八年
1570
-1580
石山合戦浄土真宗本願寺と織田信長の戦いで勅命により講和となる
元亀元年1570金ヶ崎の戦い越前国朝倉義景領に織田信長・徳川家康連合軍が攻め入った戦いで、浅井長政が織田・徳川軍を裏切って、織田・徳川軍が窮地に陥ったり、木下秀吉が殿に名乗り出て信長が命からがら京に逃げ帰ったり、戦国好きの人にはなにかと興味のある戦い
元亀元年1570姉川の戦い金ヶ崎の戦いのリターンマッチで、織田・徳川軍が近江国に攻め入り浅井・朝倉連合軍を打ち破った戦い
元亀三年1572三方ヶ原の戦い織田信長の傀儡となっていた将軍足利義昭からの上洛および信長征討の要請を受けた武田信玄が、上洛の一環として遠江国の徳川家康を攻めた戦いで、家康は九死に一生を得て単騎浜松城に逃げ帰った
元亀三年1572木崎原の戦い勝ちに奢った日向国の伊東義祐が島津氏の飯野城を攻め、僅か十分の一の島津義弘の軍勢に敗れた戦い
元亀三年1573野田城の戦い武田信玄が徳川方の野田城を攻めた戦いで、城は一月かけて落城したが、信玄はこの戦いで狙撃されたという説もある
天正元年1573一乗谷城の戦い武田信玄が死んで怖い者がいなくなった織田信長が越前に攻め入り、朝倉義景が自刃するはめになった戦いで、越前朝倉氏滅亡となった
天正二年
−同三年
1574
-1575
越前一向一揆朝倉氏滅亡後に起こった一向一揆で、織田信長に臣従し、守護代に任命された桂田長俊に不満を抱いていた旧朝倉家臣も同調し、長俊をぶち殺したのを始め、主立った朝倉旧臣団を滅亡させ、越前は百姓の国となったが、翌年には一揆衆の内部分裂が始まり、最終的には織田信長命じる柴田勝家軍に一向衆一万数千人が虐殺され、越前は平定された
天正二年1574第一次
高天神城の戦い
武田勝頼が徳川方の遠州高天神城を攻めて落とした戦い
天正三年1575長篠の戦い徳川氏に属する奥三河の長篠城を武田勝頼が攻め、徳川家康の援軍要請により織田信長軍が参戦、鉄砲隊の活躍により武田軍を撃退した戦い
天正三年1575渡川の戦い家臣団の謀反により一旦は豊後国に逃げた幡多の一条兼定が土佐中村に戻り挙兵したところを長宗我部元親が攻め、一条軍が負けた戦いで、元親により土佐統一がなる
天正四年
−同五年
1576
-1577
七尾城の戦い織田信長との同盟を破棄した上杉謙信が内紛でごたごたしている畠山氏が支配する能登に侵攻した戦いで、北条氏政が上野国に侵攻したため、一時は危うかったものの最終的に謙信が七尾城を落とし、能登を支配下に入れた
天正四年1576第一次
木津川口の戦い
石山本願寺へ兵糧を移送する毛利水軍・村上水軍と、それを阻止せんとする織田水軍との戦いで、焙烙火矢の前に織田水軍は壊滅的な打撃を受けた
天正五年1577手取川の戦い七尾城の救援に駆け付ける織田信長軍を上杉謙信軍が返り討ちにした戦いだが、その実態は諸説あり、その規模など判ってないことが多い
天正六年1578第二次
木津川口の戦い
第一次のリターンマッチで、鉄甲船六隻を擁する織田方九鬼水軍が毛利水軍・村上水軍を蹴散らして、石山本願寺への補給路を断った
天正六年1578耳川の戦い木崎原の戦いで日向に侵攻した島津義久に九州最強と謳われた大友宗麟が攻め込んで、返り討ちにあった戦い
天正六年1578上月城の戦い羽柴秀吉に奪われていた播磨・美作・備前三国の国境の地にある上月城を、毛利輝元が攻め取った戦いで、城防衛を任されていた尼子氏残党の尼子勝久・尼子氏久・尼子通久らは自刃し、尼子氏再興の夢は消えた
天正六年
−同七年
1578
-1579
御館の乱上杉謙信が厠で脳卒中で倒れて死んだ後の上杉景勝(謙信の養子)と上杉景虎(謙信の養子)の跡目争いで、景勝が勝ち、景虎は自害した
天正六年1578月岡野の戦い御館の乱で上杉氏がごたごたしているのをいいことに、織田信長が越中に攻め込んだ戦いで、越中平定がなるかと思われたが、荒木村重の謀反などで織田軍は撤退した
天正六年1578須磨誕生
(但し推定)
天正七年1579第一次
天正伊賀の乱
伊賀忍者下山甲斐にそそのかされた織田信雄が伊賀を攻めようとして逆に奇襲にあい大負けした戦い
天正九年1581第二次
高天神城の戦い
武田氏が長篠の戦い以降衰退した好機を捉え、徳川家康が遠州高天神城を兵糧攻めで取り返した戦い
天正九年1581第二次
天正伊賀の乱
第一次天正伊賀の乱で勝手に軍を動かした次男信雄に激怒した織田信長であるが、今度は自ら伊賀に攻め込み、伊賀忍者の多くが虐殺され、生き残った忍者達も全国に散った
天正十年1582本能寺の変明智光秀の謀反により、織田信長が自刃に追い込まれた事件
天正十年1582山崎の戦い本能寺の変で織田信長を討った明智光秀と備中高松城攻城戦から急ぎ引き返した羽柴秀吉との戦いで、明智軍は総崩れとなり、光秀は自刃した(俗に光秀の三日天下と言われるが、実際には十一日天下)
天正十年1582神流川の戦い親織田路線の北条氏直と、織田氏から上野国に封じられ、関東管領を自称した滝川一益は表面上友好関係であったが、本能寺の変により織田信長の死を知った氏直が上野国に侵攻した戦いで、滝川軍は大敗し、一益は伊勢まで逃げ帰った
天正十年1582中富川の戦い織田信長の四国征伐で動きが取れなかった土佐の長宗我部元親が、本能寺の変で征伐軍が帰ったのをいいことに、四国統一のために阿波の十河存保を攻めた戦いで、十河軍は大負けし、阿波勝瑞城に退却した
天正十年1582天正壬午の乱織田信長の死によって、事実上空白となった旧武田領を巡って、徳川軍と北条軍が甲斐・信濃・上野で激突した戦いで、講和により北条は甲斐・信濃に手を出さない、徳川は上野に手を出さないこととなった
天正十一年1583賤ヶ岳の戦い織田家の内紛と言えないこともないが、羽柴秀吉と柴田勝家の近江国での戦いで、秀吉が勝利し、信長の後継者となり、勝家は自害した
天正十二年1584小牧・長久手の戦い羽柴秀吉の謀略にあっさり騙された織田信雄が徳川家康に援軍を求め、羽柴軍と戦ったもので、信雄・家康側が有利に進めたが、信雄が勝手に秀吉と講和し、大義名分を失った家康は兵を引いた
天正十二年1584沖田畷の戦い北部九州の龍造寺隆信と、薩摩の島津義久は肥後を巡って対立していたが、島原の有馬晴信が島津に内通し、島原半島で両軍が激突した戦いで、有馬・島津連合軍が勝利し、龍造寺隆信は戦死した
天正十三年1585紀州征伐反抗した雑賀衆を豊臣秀吉が討って滅ぼした戦い
天正十三年1585四国征伐四国統一を果たした長宗我部元親に豊臣秀吉が阿波、讃岐、伊予の三国返上を要求、元親がこれを拒否したため、秀吉は秀長、秀次に加え宇喜多、毛利軍計十万を四国に送り、元親はたまらず降伏、長宗我部氏は土佐一国に封じられる
天正十三年1585越中征伐佐々成政が立て籠もる越中国富山城を豊臣秀吉率いる大群で包囲し、成政があっさり降伏した戦いで、秀吉は成政から越中を取り上げ、前田利長に与えると共に、成政を一時御伽衆に取り入れた
天正十三年1585第一次
上田合戦
武田氏の滅亡で主君を失った信州上田城の城主真田昌幸が、徳川家康の上野沼田領を北条氏へ引き渡せとの要求に拒否したことから、家康が上田に攻め込んだ戦いで、昌幸の戦上手に徳川軍は大打撃を受け撤退した
天正十三年1585人取橋の戦い父輝宗の仇と畠山氏の二本松城を包囲した伊達政宗に、畠山氏救援に駆け付けた佐竹義重はじめ、諸氏連合軍が攻めかけた戦いで、伊達軍は壊滅寸前となったが、佐竹・諸氏連合軍の謎の撤退により、政宗は窮地を脱し、岩角城へ引き上げた
天正十四年1587戸次川の戦い九州制覇を目指す島津勢が大友氏の豊後に攻め入り、大友氏が豊臣秀吉に求めた長宗我部・仙石・十河連合軍ともども蹴散らして、豊後を勝ち取った戦い
天正十五年1587九州征伐九州制覇を目前にした島津勢に、豊臣秀吉自ら二十万を超える軍勢で進軍した戦いで、島津義久はたまらず降伏し、大部分は秀吉に召し上げられ、島津は薩摩・大隅のみ封じられた
天正十五年1587肥後国人一揆九州征伐により肥後国は佐々成政に統治されることになったが、これに対し国人衆が反乱を起こした事件で、九州・四国の諸大名が動員され、一揆は鎮圧されたが、成政も一揆勃発の責任を問われて切腹した
天正十六年1588大崎合戦陸奥大崎氏の内紛鎮圧要請を大崎家家臣氏家吉継から受けた伊達政宗が大崎氏中新田城に攻め入った戦いで、伊達軍は反撃に合い撤退したが、大崎家救援に駆け付けた最上義光の参戦や、大内・蘆名氏等の伊達領への侵攻で、伊達軍は窮地となり、なんとか大崎氏と和議を結び、双方各陣営は撤退帰国した
天正十七年1589摺上原の戦い伊達政宗が豊臣秀吉の惣無事令を無視して蘆名氏の会津に攻め入った戦いで、政宗が勝ち、蘆名義広は佐竹氏の常陸国に敗走し、蘆名氏は滅亡した
天正十八年1590小田原征伐豊臣秀吉が小田原城をはじめとした後北条氏領土に攻め入り、後北条氏を滅亡させた戦いだが、「小田原評定」という言葉の由来としての方が有名
天正十八年1590奥州仕置豊臣秀吉が主に小田原征伐の陣触れへの対応具合に応じて奥州諸氏の処遇を決め、奥州仕置軍を会津黒川まで進軍させたもので、これにより秀吉の天下平定が完了した
天正十八年1590葛西大崎一揆豊臣秀吉の奥州仕置で領地を没収された陸奥中部の葛西氏・大崎氏らの旧臣が起こした反乱で、蒲生氏郷と伊達政宗がそれぞれ新領主の木村氏救出の命を受けて、軍を派遣したが、反乱そのものは政宗が煽動したと言う説がある(秀吉は政宗の弁明を認めた)
天正十九年1591−九戸政実の乱陸奥国南部氏は奥州仕置で領地は安堵されたが、前代南部晴継の暗殺の容疑がある南部信直が当主であることに不満を抱いていた九戸政実が起こした反乱で、信直は秀吉に九戸討伐を要請、六万を上回る討伐軍が編成され、九戸氏所領への攻撃、九戸政実は降伏し、後に九戸一族もろとも斬首・惨殺され、九戸氏は滅亡した
天正二十年1592梅北一揆島津家家臣・梅北国兼が起こした反乱で、動機は、朝鮮出兵への反発とも、秀吉の支配に対する反発ともいわれ、佐敷城を占拠したが、佐敷城留守役の安田弥右衛門に騙されあっさり斬首、一揆軍も加藤氏や相良氏の軍勢によって鎮圧された
天正二十年
−慶長三年
1592
-1598
文禄・慶長の役明の征服を目指して豊臣秀吉が起こした対外戦争
慶長五年1600関ヶ原の役豊臣秀吉死後の政権を巡って争われた徳川家康を中心とする派と石田三成を中心とする派の間の決戦で、徳川方が勝ち、後に江戸幕府となるが、所詮豊臣家の家臣同士の争いであり(事実豊臣家自体は参戦していない)、豊臣家の内紛と捉えることも不可能ではない

以上挙げたのが全てではありませんが、こうして列挙してみると、しょっちゅう戦が行われているような印象を受けますね
実際には上に挙げた分では一年一戦以下ですし、またかなり地域限定でもありますんで、ある地域に着目すれば、戦の頻度はさほど高いものではないことが見て取れます

さて、上の年表のように個々の戦いについて列挙しても、なかなか当時の政情について理解するのは困難だと思います
以降は、各家の興亡に着目して、少し物語風に述べてみましょうか

まず、朝廷関係

明応の政変発生時の天皇は第百三代後土御門(成仁)天皇ですね
第百二代後花園(彦仁)天皇の第一皇子です
成仁天皇は、嘉吉二年(1442)生まれですから、政変発生時は五十一歳(数え、以下同)だったわけです
成仁天皇の践祚(寛正五年:(1464))のすぐ後に応仁の乱が発生し、京の町が荒廃し、朝廷も随分貧乏になり、苦労されます
和歌を極めて愛されており、応仁の乱勃発と共に父後花園院と共に足利義政の室町邸に身を寄せられていた十余年の間も頻繁に歌会が開かれていたそうです
乱の終結後、朝廷古来の儀式の復活などに尽力されましたが、明応の政変に怒って譲位を決意されます
しかし、権大納言甘露寺親長の諫めにより譲位をあきらめます
当の甘露寺親長はその直後に全ての官を辞めて出家しています
実は、譲位の儀式のための費用がなかったという説もありますが、崩御なされた時も葬儀の費用が無く、一月以上も放置されたとのことですので、儀式の費用がなかったのも本当かも知れません
成仁天皇の在位中の明応七年 六月十一日(1498.7.9)にM7.0-7.5の日向地震が、同八月二十五日(1498.9.20)に東海道全域で死者3-4万人というM8.2-8.4の明応地震が起こっています
明応地震の津波のために浜名湖が外海とつながったそうです
御集「紅塵灰集」のほか、数種の御詠草が伝わっているとかいうことです
明応九年 九月二十八日(1500.10.21)、成仁天皇は貧乏と失意のうちに崩御され、伏見の深草北陵に葬られました

後土御門天皇崩御を受けて即位されたのがその第一皇子である第百四代後柏原(勝仁)天皇です
即位は明応九年 十月二十五日(1500.11.16)で、生年が寛正五年(1464)ですから三十七歳での即位ですね
先代同様朝廷は貧乏でしたので、本願寺や幕府の献金を受けて、永正十八年 三月二十二日(1521)にようやく即位の礼を執り行うことが出来ました
勝仁天皇の代始めと辛酉革命にあたることから、明応十年 二月二十九日(1501.3.18)に文亀に改元されました
また、甲子革令にあたることから文亀四年 二月三十日(1504.3.16)に永正に改元されました
更に戦乱・天変などの災異のため永正十八年 八月二十三日(1521.9.23)に大永に改元されました
文亀元年 十二月十日(1502.1.28)にM6.5-7.0の越後地震が発生し、死者多数が出ています
また、永正七年 八月八日(1510.9.21)にM6.5-7.0の摂津・河内地震が、永正十七年 三月七日(1520.4.4)にM7.0の紀伊・京都地震が起こってます
吉良町花岳寺には勝仁天皇が左少将白川雅業に宛てた宸翰(直筆の書)が残されています
また、歌道に優れ、約五千首もの歌を集めた御集「柏玉集」があり、嵯峨大覚寺に天皇宸翰詠草(七夕瑤琴)が残されています
大永六年 四月七日(1526.5.19)、勝仁天皇は崩御され、伏見の深草北陵に葬られました

後柏原天皇崩御を受けて践祚されたのがその第二皇子である第百五代後奈良(知仁)天皇です
践祚が大永六年 四月二十九日(1526.6.9)で、生年が明応五年(1497)ですから、三十歳での践祚になります
先代・先々代同様朝廷は貧乏でしたので、後北条氏・大内氏・今川氏などの戦国大名の寄付によって、天文五年 二月二十六日(1536.3.29)にようやく即位式を行われました
知仁天皇の代始めの意味で、大永八年 八月二十日(1528.9.3)に享禄に改元されました
第十二代将軍足利義晴の申請により、戦乱などの災異のため享禄五年 七月二十九日(1532.8.29)に天文に改元されました
更に戦乱などの災異のため天文二十四年 十月二十三日(1555.11.7)に弘治に改元されました
知仁天皇の御製に「後奈良天皇御撰何曽」というのがありますが、これは和歌を題材としたなぞなぞ集だそうです
金のない当時の朝廷でしたから、金のかからないなぞなぞ遊びが流行ったんだろうと言う人もいますが、どうでしょうね
藤井永観文庫に父である勝仁天皇の宸翰和歌懐紙とともに知仁天皇の宸翰和歌懐紙・宸翰色紙・宸翰和歌短冊貼交屏風が伝えられていますが、父によく似たおおらかで重厚な筆致であることが判ります
また、貧乏でしたが清廉な方だったらしく、左近衛大将に任命された一条房冬が秘かに朝廷に献金した銭一万疋を突き返したり、即位式に献金した大友義隆の大宰大弐への任官申請を一端は拒絶したりの話が残っています
銭一万疋ってどのくらいでしょうね
銭貨十万枚分、つまり十万文、重さにして百貫ですから375kg、無理に小判に換算すれば二十五両、享保のころの蕎麦切(かけそば)が八文ですから、かけそば一万二千五百杯分、今のかけそばが立ち食いで三百円弱でしょうか
そうすると、だいたい三百万円くらいですね
う〜ん、防衛省大臣就任お礼として高いのか、安いのか・・・
知仁天皇の在位期間中には天変地異が多く、天文八年(1539)には全国的に洪水、翌九年(1540)には飢饉と疫病流行があったそうです
私、自夜はこの洪水の年に生まれた訳ですが、もちろん朝廷にはなんら関わり合いはありません
知仁天皇も既に天文三年(1534)に諸寺社に疾疫沈静の祈祷を命じていましたが、天文八年(1539)には諸国一ノ宮に宸筆の般若心経を配布し災害復興を祈祷させています
また、天変ではありませんが、天文十二年 八月二十五日(1543)にポルトガル船が種子島に漂着し、鉄砲が日本に伝えられたり天文十八年 七月三日(1549)にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着したり、時代が大きく変わろうとする時の天皇でした
弘治三年 九月五日(1557.9.27)、転載と戦乱と貧乏に見舞われながらも清廉だった知仁天皇が崩御され、伏見の深草北陵に葬られました

後奈良天皇崩御を受けて践祚されたのがその第一皇子である第百六代正親町(方仁)天皇です
践祚が弘治三年 十月二十七日(1557)で、生年が永正十四年(1517)ですから、四十一歳での践祚になります
先代・先々代・先々々代同様朝廷は貧乏でしたので、毛利元就などの献金により、永禄三年 一月二十七日(1560)にようやく即位式を行われました
毛利元就の献金は銀四十八貫、180kgですかね
銀の価格は1gが二十円くらいですから、銀四十八貫で三百六十万円ですか
随分安い即位式かと思いますが、この献金で毛利元就は陸奥守に任命されてますから、元就にとっては安い買い物だったのかもしれません
参考:毛利元就が献金した御取納丁銀(記事)
方仁天皇の代始めの意味で、弘治四年 二月二十八日(1558.3.18)に永禄に改元されました
また、戦乱などの災異のため、永禄十三年 四月二十三日(1570.5.27)に元亀に改元されました
元亀三年 九月(1572)に織田信長が足利義昭に送った意見書で元亀の年号が不吉であるとして改元を申し出ていますが、元亀四年 七月(1573)には信長は義昭を京から追放した上で、公卿や朝廷に働きかけ、表向き戦乱などの災異のためとし元亀四年 七月二十八日(1573.8.25)に天正に改元されました
つまり、元亀とともに戦国時代は終わり、天正とともに安土桃山時代となったことになります
さて、このようにようやく即位出来た方仁天皇でしたが、織田信長の上洛までその活動はあまり知られていません
せいぜい永禄十年(1567)に松平家康に徳川姓を許したとか、そう言った類のものしかありませんし、方仁天皇本人が許したのかどうかもわかりません
ちなみに、永禄四年(1561)に加由誕生、永禄七年(1564)に私、自夜が狂い死にしてますが、これまた朝廷にはなんら関わり合いはありません
桶狭間で今川義元を倒し、このころ尾張・美濃二国の大名となっていた信長に、永禄十一年 十月(1568)、方仁天皇が上洛の勅命を出します
信長は足利義昭を伴い上洛し、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と松永久秀が擁立した第十四代将軍足利義栄に代わって義昭を第十五代将軍に擁立します
上洛した信長は、皇居の修理に着手し、市民の賦税を免じて京都の再興を図り、朝廷に恩を売ります
そのお陰で、元亀元年(1570)に浅井・朝倉連合軍と近江国志賀で対峙したすきに反旗を翻した伊勢長島一向一揆衆によって進退に窮した信長は、同年十二月十三日に方仁天皇の勅命を得て、浅井・朝倉連合軍と和睦することで窮地を脱することができたりします
元亀四年(1573)の義昭との戦い、天正八年(1580)の石山本願寺との講話も信長が方仁天皇の勅命を得て行ったものです
また、天正二年 三月(1574)に信長が上洛した際に、方仁天皇は信長の奏請を受け、蘭奢待の切り取りを勅命をもって了承したりしてます
蘭奢待とは東南アジア産の香木で、天平勝宝八年(756)に光明皇后が東大寺に献納されたもので、勅命を持ってのみ切り取ることが許されているものです
これまで、足利義満・足利義教・足利義政・織田信長・明治(睦仁)天皇が切り取ったことが知られています
参考:蘭奢待(youtube動画)
ともあれ、このことで信長は方仁天皇の権威を利用することで実力を示し、方仁天皇は実をとって貧乏生活から脱することを企てたと考えていいんではないでしょうか
一方で、天正元年(1573)から天皇の譲位問題が起こっており、後の馬揃えや信長の官職の件と絡めて、方仁天皇と信長の関係は考える必要があります
馬揃えとは、信長が天正九年 二月二十八日(1581)に天皇臨席の元で行った京都御馬揃えのことで、大規模な軍事パレードのことです
方仁天皇と信長の関係は大きく二つの説があり、信長側から見て軽視説・尊重説などと呼ばれているものです
軽視説とは、朝廷を天下布武の障害と看做してその廃止をも考えていたというもので、尊重説とは、信長独自の政策を正当化するために朝廷の権威を利用したというものです
軽視論に立てば、信長にとって天皇は傀儡が都合良く、信長の意のままにならない方仁天皇に対して譲位を要求したことになります
また、馬揃えは譲位に応じない方仁天皇に対する軍事的威圧であり、天正六年 四月(1578)以降信長が官職に就かなかったのは、もはや朝廷の権威を必要としなくなったからと解釈できます
方仁天皇にとっては傍若無人に振る舞う信長に対して精一杯虚勢を張っていたというところでしょうか
一方、尊重論に立てば、譲位を希望したのは方仁天皇側であり、唯一譲位に伴う儀式や天皇の退位後の御所の造営・移転などの費用を負担出来る信長の同意がなければ譲位は不可能で、その信長が譲位に同意しなかったのは、気心の知れた方仁天皇の方が天皇位にある方が都合がよかったと解釈できます
また、馬揃えについてもむしろ方仁天皇側が信長から厚遇されていることを示すことにより朝廷の威厳が未だに損なわれていないことを示すために方仁天皇側から言い出した、少なくとも方仁天皇の方から臨席したいと希望したと解釈できますし、信長の官職の件でも、単に大臣級の辞任後は一時無官になることは珍しくなく、その後太政大臣に任ずる予定だったのが本能寺の変が先に起こってしまったと考えることに無理はありません
いずれの説も完全肯定あるいは否定されるほどの史料も存在せず、真相は闇の中です
ところで、このように信長が朝廷に深く関わってきた天正六年(1578)ごろ、私の孫の須磨が誕生しますが、もちろん朝廷にはなんら関わり合いはありません
そして、天正十年(1582)信長が本能寺で自刃した年に私は坊主の死に立ち会います
方仁天皇も皇太子である第五皇子誠仁親王に天正十四年 七月二十四日(1586.9.7)に先立たれます
譲位直前の病没であったと伝えられています
方仁天皇は誠仁親王の第一王子、即ち孫である和仁親王を猶子とし、天正十四年 十一月七日(1586.12.17)に譲位されました
退位した天皇は仙洞御所に隠退されてましたが、文禄二年 一月五日(1593.2.6)に崩御され、伏見の深草北陵に葬られました

正親町天皇に譲位され践祚されたのがその孫である第百七代後陽成(和仁)天皇です
践祚が天正十四年 十一月七日(1586.12.17)で、生年が元亀二年(1571)ですから、弱冠十六歳での践祚になります
和仁天皇が即位された時点では既に前世物語は終了していますので、詳しく書くのは控えますが、慶長十六年 三月二十七日(1611.5.9)に第三皇子政仁親王に譲位されるまでが和仁天皇の在位期間であり、豊臣政権から江戸幕府初期の天皇であり、時代に翻弄された天皇でもあります

さて、以上五代天皇が明応の政変からの戦国時代及びその後の安土桃山時代に関係されたわけですが、応仁の乱からの京の荒廃から朝廷は貧乏にあえぎ、正親町天皇時代で少しはその権威も盛り返しましたが、最終的に江戸時代となり、朝廷の権威は形骸化してしまうと言う時代であったと思います
もう一度五代天皇の在位期間を整理してみましょう

第百三代後土御門天皇寛正五年 七月十九日1464.8.21明応九年 九月二十八日1500.10.21
第百四代後柏原天皇明応九年 十月二十五日1500.11.16大永六年 四月七日1526.5.19
第百五代後奈良天皇大永六年 四月二十九日1526.6.9弘治三年 九月五日1557.9.27
第百六代正親町天皇弘治三年 十月二十七日1557..天正十四年 十一月七日1586.12.17
第百七代後陽成天皇天正十四年 十一月七日1586.12.17慶長十六年 三月二十七日1611.5.9

私、自夜の生年が天文八年(1539)、坊主が死んで須磨と別れたのが天正十年(1582)ですから、前世物語の時代と直接関係あるのは後奈良天皇と正親町天皇のお二方となりますかね

以上で朝廷関係は終わりにしましょう

次は室町幕府というか、将軍足利家で見てみましょうか

てなところで、次回につづく



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最終更新日:11JUL2008

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