やましろ風土記(その3)                               シリーズ・巨椋池

一 口

 

〜 い も あ ら い 〜  

(京都府久世郡久御山町)

 「漁村」を追い求めたら、

 

  「一口」に流れ着いた・・・

 

 

その人は京都府出身、

      故郷はかつては漁村だった、

        小学校の校歌の一節にも「これ一面漁緑(さみどり)」とある

 

 ※「豊かな漁労の収穫がある」という意味であるらしいです。     

  平成17年の秋、とあるアニメ作品の舞台を求めて一人の制作スタッフの故郷を捜していました。始まりはそのアニメのムックに載っていたインタビュー記事で「作品の背景は私と監督の故郷自慢です。」のくだり、何でも故郷周辺の風景や町並みをカメラに撮って背景に使用しているとのこと。

 監督の出身地は既に知られており、未知の背景を求める為にこのスタッフの故郷を追うことになったのです。

 

 ヒントは製作会社のHPにあったスッタッフプロフィールでここから手掛かりを捜すと初めに書いた『』の3条件が浮かび上がったのです。京都府で漁村なら丹後地方だろうし、かつて漁村ということは今は臨海の工業化が進んだか、埋め立てられたかだろうから舞鶴市や宮津市のような都市である可能性が高いかと・・・。

 そんなこんなで勢い込んで地域を絞り込んでいき片端から該当地域の小学校のHPを検索して校歌を入手するも・・・、ヒット無し。

 さらに廃漁港の情報がないかと資料を漁っても適当なところはない・・・と。結局「何処なんだー!」と叫んだまま半年程が経過しました。 そんな中、師匠のQL氏から貴重な情報が・・・。

『久御山町の一口がそうらしい』という何故か農業関係筋(?)からのネタ元で。

早速調べてみると、

1 昭和の初頭までこの地には【巨椋池(おぐらいけ)】という大きな湖沼が存在した

2 一口が平安の世より朝廷より漁業権を約された一大漁村であった

3 近くの御牧小学校(明治5年開校)の校歌には「これ一面漁緑」の一節がある   ・・・等々が判明。

まさにビンゴ〜!!う〜〜〜ん流石に京都盆地というこんな内陸部で「漁村」という発想がありませんでした。完全に盲点でした。ではではと、舞台を求めて探訪に出発だ〜〜〜〜!

 まあ、こんな感じで私とこの不思議な集落「一口」との出会いがあったわけです。

 

 

 そもそも「一口」と書いて

 

「いもあらい」とは読めないだろう・・・と、

 

 太秦(うずまさ)、御陵(みささぎ)、物集女(もずめ)、帷子ノ辻(かたびらのつじ)山城の地に難読地名数あれど今回紹介します「一口」はその最上級に位置します。

 この漢字と読みの由来は諸説あるようですが、ここでは一例を紹介しておきます。

 まず漢字の方ですが、こちらは地形的なことからきているようです。

つまり小掠池があった頃はこの地は湖に突き出た地域であり、北・東・南の3方を湖沼に囲まれ唯一西側だけが地続きになっていた為に「西の一口」と表されていたのが単に「一口」になったというのがそれです。

航空写真

 一口(東一口地区)は、京滋バイパス久御山ICの北西、東端(画像右側)は国道1号線に接し、古川(下)と前川(上)に囲まれた東西に約1kmの帯状に広がる地域です。

 右端の縦一直線は国道1号線、下線一杯の所に京滋バイパスが。

画像では一口の西口(画像左)は宇治川に断ち切られる形になっていますが、これは明治の付け替え工事以降の風景で江戸期以前は対岸の淀地区と地続きとなっていました。

(画像はYahoo!地図サイトより引用しました。)

揚水場

 一口の西口には新旧の巨大な揚水施設が有り、前川と古川に集まった旧巨椋池地域内の水を懸命に宇治川に排水しています。

 

 このことからもわかるように一口付近は巨椋池の中でも最も低い土地であり、つまり山城盆地の”鍋の底”であることが窺えます。

(画像は、前川にある新しい方の揚水場。平成19年春から稼働を始めました。)

旧宇治川水路

 国道1号線の宇治川の橋より西へ300mほどの堤防場より大阪方向を撮影。

は左から´↓です。

,録畦反緇譴如↓△錬複劭禅都競馬場のスタンド、は豊臣秀吉が築いた横大路沼と宇治川を隔てる堤跡。

江戸期まではこの付近からの切れ目と△隆屬魃Ъ川が流れ、淀の北、今の納所・宮前橋付近で桂川と合流していたとか。

(画像をクリックしてもらうと大きな画像に変わります。)

 

 では一方、読み方はというと禊ぎや神事を表す「忌み払う(いみはらう)」が語源ではないかと・・・。

小掠池の北端、都の入り口に当たるこの地で神事が行われたのではないかと、そしてそれが「いもあらい」という土地名となったと・・・。

 そして最後に「西一口のいもあらい」という通り名が短縮されて「一口(いもあらい)」となったのではないかと・・・。

 

  

 

微 高 地

 

微高地

  天王山前から京滋バイパスの側道を東へ進むと久御山インター手前で旧家が横一列に並んでいる風景が目に入ってきます。これが一口(東一口地区)の集落です。

家の土台部分がはっきりと見て取れることからもわかるように、周りの田畑と比べて数m高い土地に寄り添うように建っています。

 巨椋池の終末期の水深は平均1m程度であり干拓事業では池の底部がそのまま田畑となったということですから、氾濫期の水位の上昇にも浸水しない微高地に家屋が造られたという特性が窺えます。

微高地1

 南を流れる古川と東一口地区の町並み。

画像左の土手は川の水面がありその上のコンクリート護岸、緑に覆われた堤防部、道路が走っている小平坦部、一段高くなった宅地部と多層的な構造になっています。周辺の田畑がコンクリート護岸の上部の高さですので小掠池の水位としては堤防部の中程ではなかったかと推測されます。

微高地3

 小平坦部と宅地部は3m程の落差。今では小平坦部にも住宅が建っています。

 漁村としての往時の写真はまだ見たことがありませんが、巨椋池が有った頃はこの小平坦部は番小屋や漁具を並べた前浜に相当したのではないでしょうか?

微高地2

 こちらは北側の前川と前川橋からの眺め。中央の旧家は山田家(後述)の長屋門。

 後述する大池神社はこの画像の背後にあり、昭和の大洪水(後述)の際には停まっているトラックの運転台くらいまで水位が上がったらしいです。

 ちなみにこの前川橋をはじめ旧巨椋池地域にある橋の殆どは大洪水後に竣工された天ヶ瀬ダムと同時期の昭和30年代に架けられています。 


メイン道路の両脇に建ち並ぶ旧家、

 

古の魚市場の賑わいかな?

 

 今更ながらですが、只今紹介しているのは東西一口の「東一口地区」の方です。

 西の久御山揚水場(旧揚水場)を起点とした長さ約1kmの道路の両側にびっちりと旧家が建ち並ぶ独特の景観を醸し出しています。

 (一方の「西一口地区」の方は久御山揚水場から南の微高地に広がる集落です。宇治川が現在の流れになる明治以前は一口の名前の通り西側基部として淀や御牧等の地区と繋がっていました。)

東一口の西口

  東一口の西端を宇治川の堤防より眺めています。中央の小径が集落のメイン道路です。

 この場所は、明治の宇治川の付け替え工事や昭和の干拓事業で切り崩されたようです。

本来一繋がりであるはずの西一口地区とは地形的にも集落の広がりにおいても完全に断ち切られており、周辺とは孤立した集落という印象が強くなっています。

メイン道路1メイン道路2メイン道路3メイン道路4

 道路は車一台が通れる程の狭い道幅ですが、両脇には殆ど空き地無く、敷地一杯の住宅が約1kmにわたって建ち並びます。

現代建築の家もありますが多くは「下り瓦」という珍しい工法の瓦葺きの屋敷や旧家であり地域住民の景観保全の意識の高さが窺えます。

 微高地に寄り添う漁村というイメージではもっと長屋や狭小住宅がひしめき合っているように思いますが、どの家も間口は広く立派な構えです。中には立派な門を構えていたり白壁の内に土蔵を持つ屋敷もあります。どちらかというと商家街の町並みですね。

 この町並が漁村時代からのものなのか、干拓後の農村としてのものなのかは未だわかりませんが、もし漁村時代からそうなのであれば特権的な漁業権を有する漁民(漁師)達の隆盛が偲ばれます。

 道路は直線に延びるのではなく随所で緩く曲がりながら約1kmに渡って続いてゆきます。

路地1路地2

  集落の両端部は道路の両脇に並ぶ家屋の片側一列分の配置でそれが外から見れば家屋が直線上に連なる独特の景観をもたらせているわけですが、中央部は複数列の家屋が配置され膨れた形になっています。前川橋や山田家の屋敷が在るところですね。

 ただ膨れると言っても提頂部の土地が広がったというよりは両川の外縁の小平坦部にかけて緩やかな斜面をつくりそこを宅地にしているわけです。

 この部分は路地で結ばれています。狭い道幅ですが農具を積んだ軽トラが元気良く走り回っています。

 今では周辺は広い田畑に囲まれ、庭先にはタマネギが干されています、また近くには収穫物や農具を手入れする共同作業場も設けられておりすっかり「農村」の顔に生まれ変わっています。

 

東一口の東端

 集落の東端部です。

左の水色の橋は国道1号線です。

3戸だけぽつんと離れて建っており、この3戸は左端の集落より一段低い位置にあり基礎部もコンクリートでかさ上げしてあります。

推測ですが元は国道一号線の道路上が端末であり、国道開通時にその部分だけ移転したのではないでしょうか。

この先には近鉄向島駅付近まで人家はありません。

 

漁業権を独占した漁村の栄枯盛衰

 

豊かな漁場も末期にはヘドロが溜まる疫病の巣に・・・

 

 古代から中世・戦国期までの巨掠池は掛け値無しに豊かな漁場であったようです。

そもそもそれ自体が命に満ちあふれた琵琶湖に源を発した宇治川が宇治橋を越えたあたりから槇島・向島等の島々を抜けて直接に遊水池・巨椋池に流れ込んでいたわけですから・・・。伝えによると一網で舟一杯の魚が捕れたとか。

 そこから変化が現れたのが豊臣秀吉による伏見城築城です。

天下人・秀吉は京都の押さえ伏見城を要衝化する為に宇治川と巨椋池の大改造に着手します。

まず槇島堤を築堤して宇治川の流れを今の木幡〜桃山という北に大きく迂回するルートに寄せて本流が直接巨椋池に流れ込まないようにし、太閤堤を池の中に築き大和街道を引くなど築堤で一つの大きな池を大池と数個の池に分断したのです。それでもまだまだ宇治川の流れは池に注ぎ込んでおり変化は急速には進行しませんでした。しかし流砂の堆積による浅瀬化と併せて少しずつ少しずつ漁獲は減少する道程を歩んでゆきます。

 決定的な出来事は明治24年に完成した治水工事。浅瀬化した宇治川は毎年のように氾濫を繰り返しておりこれを治める為に観月橋以降の南岸堤防を整備し、納所付近で桂川と合流していた流れを新水路を掘削して現在の八幡で合流するという川の付け替えを行ったのです。

これにより巨椋池は東一口の僅かな水路の他には宇治川の流れから完全に切り離され、独立した淡水湖となります。変化は急速に進み孤立した湖沼内は水位が著しく減少し、周辺から流れ込む生活排水は富栄養化をもたらし、循環を失った水は枯れた草木や汚れを分解する力は既に無くヘドロとなって湖底に沈殿するだけとなってきます。それが蚊の大量発生を招きついにはマラリアの大流行を誘発してゆきます。

当然魚も減り、漁獲高も年々落ち込むなってきてきました。既にこの頃になると漁獲だけでは立ちゆかなくなり、農業と兼業の漁師が多数を占めるようになってきていました。

 こと此処に至り、害悪ばかりの巨椋池を捨て、干拓によって農地を増やそうという気運が高まり昭和6年から干拓事業がスタートします。

 

山田家

 旧家に見とれて道を進むと突然「お屋敷」が目の前に現れます。場所は東一口のちょうど真ん中、屋敷の反対側からは前川橋が見えます。

 なんと言いますかとにかく凄い存在感です。幅2.5m程度の道に門の大屋根がせり出しているわけですからね。それに正面幅だけで周りの家の4軒分は優に有ります。

(画像の軽自動車と比較してもらえれば大きさがわかると)

・・・とは言え道から見えるのはこの「長屋門」(両脇が使用人等の居住や納屋になっている)と塀だけなんですよね。デカ過ぎ・・・。

山田家説明山田家2

  門の前に由来書きが立ててありました。

(←画像をクリックしてもらうと大きな画像が出ます)

 お屋敷の主は山田氏。立派な長屋門から御武家さんか豪商かと思いきや漁師の網元さんです。網元さんで豪邸といえば「ニシン御殿」を思い浮かべますが、隆盛としてはそれ以上だったのかもしれません。

 鎌倉時代に承久の乱を起こした後鳥羽上皇から東一口村、小倉村(宇治市)、三栖村(弾正町と一緒にされることもある)、弾正町(京都市伏見区)の4か村にのみこの豊かな水面の漁業権が下賜される。漁業株の独占ですね。これ以後この4か村に属する漁民以外はたとえ沿岸の住民であっても一切の網や竿を入れることは許されなかったとか。

 その漁業株の総帥のとして山田氏がこの地にあったということであるから、大きな屋敷も頷けます。(おまけにこれでも最盛期の1/3の敷地とか)

しかし、その漁業権が「東は津軽外の海から、西は櫓櫂の及ぶ範囲」で適用とは上皇も太っ腹なものです。

 

御牧小学校御牧の家

 写真は対岸(?)にあたる御牧地区にある御牧小学校と近くの民家です。

小学校は明治5年(この場所には明治14年から)の学制発布と同時に開校しています。冒頭の校歌の一節はこの学校のものです。御牧村には漁(すなどり)は許されていませんでしたがそもそも山田家が御牧13ヶ村の大庄屋でもあったので、この歌詞が入ったものかと思われます。

 元来この地は南から来た木津川が巨椋池/宇治川に流入していたところです。その為か旧家の多くは周辺の田畑と数m高い壇上に築かれています。巨椋池周辺では農業と漁業は一方が豊作ならば一方が不作となる「相克」の関係であったと言われています。よって漁業権の独占も含め漁民と農民との対立は時には深刻な争論に発展したとか・・・。

 ここからは私の妄想であるのですが、漁業株を持つ4ヶ村は単なる漁民ではなく半漁半武の水軍集団ではなかったかと思うのですね。

時期的に源平騒乱と鎌倉幕府の成立の頃であり北面・西面の武士という独自の戦闘部隊を有して幕府と対立した後鳥羽上皇が、近江・大和・河内・摂津の地域から巨椋池沿いを通り都に攻め登ろうとする幕府勢力に対して要衝の位置にある4ヶ村を取り込んで守りを固めようとしたのではないかと・・・。事実、承久の乱では一口には軍勢が配されましたし、小倉村近くの大和街道の宇治橋では争奪戦が行われました。

 あの山田家の屋敷が豪族の城館であったと考えれば、あの特異な地の東一口村の軍事的意味も出てくるかと・・・。

大池神社1大池神社2大池神社の漁業記念碑

 前川橋の向こうにある大池神社です。大池とは巨椋池の古名で特に秀吉の治水事業以降の一番大きな池を指します。神社は周辺の田畑と同じ高さにありますのでかつての池の底に建っています。

上の画像の中で、「大池神社」の「池」の字付近に白い石碑があります、中段の画像がそれです。碑によると干拓事業が完成して12年後の昭和28年9月、台風による増水で宇治川堤防が決壊し干拓前の巨椋池とその周辺流域一帯が水に浸かり数ヶ月もの間巨椋池が再現されたとか。その際この付近の水位はこの碑の最上部まであったとのことです。

下の画像は同じ境内に建立されている「大池漁業記念碑」です。

独占的な漁業権を有した漁民の隆盛にも江戸時代も終盤にさしかかる頃には翳りが見え始めます。江戸期には農民との大きな紛争が2度ありますが、2度目の際には江戸の幕府で裁定が持ち込まれ漁民の特権が一切否定されます。4ヶ村以外でも沿岸での漁が認められたり、漁具の設置料を沿岸農民に支払うように命ぜられたりしました。

そして明治に入っての治水事業で巨掠池の漁業は完全に立ちゆかなくなります。相変わらずの水害、水位の減少、水質の悪化、漁獲の激減そしてマラリアの大流行・・・。

親から子、子から孫へと受け継がれた漁具も次第に寂れ、代わって鋤鍬で田畑を耕すことが多くなったと言います。

 昭和8年〜16年の干拓事業で巨椋池は完全に姿を消しますがこれはその際に建立されたもので、1000年以上続いた巨椋池漁業の墓碑でもあります。 

 

 

まとめ

 

 冒頭のとおり、私がこの一口を訪れたのは舞台訪問の為ですがその際に見聞きしたことがこのサイトの「風土記」を起こすきっかけにもなりました。今では何処を見ても「農村」である一口地区がかつて「漁村」であった事実とその背景である「巨椋池」の存在、そしてその二つが織りなす歴史・・・、少し調べただけでもこれだけの今まで知らなかったことを知ることが出来ました。

 

最後のこの記事を書くに当たって次のサイトを参考にさせていただきました。ありがとうごうざいました。

「農」の新しい歴史を刻む-国営巨椋池農地防災事業-近畿農政局

http://www.kinki.maff.go.jp/introduction/seibi/jigyou/oguraike/index.html

【城めぐドットコム〜西一口城跡〜】

http://www.siromegu.com/index.htm

【久御山町ホームページ〜久御山ナビ〜】

http://www.town.kumiyama.kyoto.jp/

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』〜巨椋池〜

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E6%A4%8B%E6%B1%A0

 

前川1前川2

 

        画像は前川橋からの眺めです。

 

 

 


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